ヤフーニュースにもなっている拙記事、
「ラーメン一杯1000円以上は高い」論がもはや時代遅れと言えるワケ
について、補足というか書ききれなかった部分があるので、ここに留めておきたい。
ヤフーニュースのコメント欄ではだいぶdisられてるようだが、モノの価値を高いか安いかだけ問うのは、受け手個人個人の価値観の問題なので、それ自身を取りざたするのは不毛と言っていいかもしれない。
ただ、ここで言ってるのはこういう問題ではない。ましてや、原価を考えれば今の価格でも高いという意見があったが、光熱費や家賃などの固定費、諸々差っ引くと、どんなに原価安くとも、そんなに手元に残るものではない。安い材料でアホみたいに人が来る時代ではないし、ハッキリ言ってラーメン屋は、コストもそうだし、拘束時間、体力的な部分でも、仕事として効率が悪すぎる。
飲食店が続けられるために、必要な売上が現状の価格では殆どの店でしっかりと担保できず、これからの経営を見据えた時に、従業員にも給料を払えて、店もある程度蓄えを備えられて、自らも家族を養えて年に数回は旅行に行けるくらいの金銭的時間的ユトリが持てるくらいでないと、ラーメン屋、ひいては個人・家族規模の飲食店はなくなってしまうのではないか。
現状、このコロナ禍で、ほんの1〜2ヶ月程度持たないという、飲食店の経営体力の実情を見せつけられた訳で、そこは食べ手も、それなりの仕事をしているものに対しては、しっかり店主が生きていける対価を支払うという意識を持たいないとホントにヤバイことになるぞと思われたのではないだろうか。
適正価格は本当に適正な価格なのか?
なんでそんなにラーメン一杯の値段が、この20〜30年で1.5倍程度しか上がってないのかというと、やぱり横の様子というか、よほどの付加価値をつけない限り、他店よりかなり高い値段を付ける勇気がないんだと思う。
同じような内容だったら安い方に行くのは人間の心理で、そのために、本当はもうちょっとほしいところでも、高くしてお客さん来ないんだったら、ちょっとは利益分を自分が飲んで、世間が思う適正価格に合わせざるを得ない。
こういう現象を目の当たりにしたのがスーパー銭湯で、台頭した頃、多くの施設が2000円近い価格設定をしていた。よく考えれば、広大とも言える土地で、銭湯の何倍もの湯船・カランの数があって、水だって大量に使うんだから、それくらいしたって可笑しくない。健康ランドがだいたい2000円くらいだから、その辺の価格設定になるのだろうが、お客さん来ないんで、徐々に下げていって、だいたい7〜800円くらいで落ち着く。
消費税増税とかで、今は800〜1000円くらいの施設が多いが、あれだけ風呂やサウナや食事処、休憩室まで整っていて、銭湯の倍くらいの値段というのはやっぱりおかしい。でもそれがだいたいのスパ銭の適正価格となると、健康ランドが高く見えて、価格を下げたり、クーポンつけたり、曜日ごとにタイプの違うサービスデーを設けて、なんとかスーパー銭湯レベルで入れる努力をしている。
自分も店をやっていたからわかるが、ちょっとでも世間の適正価格(そんなもんないんだけど、一般の人がそう思っているであろう値段)より高いだけで、高い高いとめっちゃ言われる。気にしなきゃいいと思われるかも知れないが、このプレッシャー、ストレスたるや、もう半端ない。
先のスパ銭の例でいえば、じゃあ価格を半分に値下げしたら、倍のお客さんに来てもらわなきゃいけない。スパ銭の場合は、もしかしたらこれが実現できるかもしれないが、飲食、特に自分のやっていたような珈琲店は、値段を半分にしてもお客さんはまず倍は来ない。仮に来たら、仕事が倍になるわけで、これまで一人で回したものが回せなくなって、バイトなりを雇うこととなる。給料を払うには、またさらに売上がないとならなくなり、だったら一人でやるとなれば、仕事のスピードアップや効率化を優先し、品質は二の次にせざるを得ない。品質をキープすれば、安いのに数が裁けず、実入りはすくなるなる。もう既に行くも地獄、退くも地獄の状態だったとも言える。
底値=適正価格というバイアス
この状況を打開するには、なんとか消費者側に、これまで安すぎた価格を本来の適正価格に戻す頭にしてもらう術はないものだろうか。
それには、底値が適正価格になるという発想を変えてもらうしかないと思っている。
自分の知り合いの話だが、スペシャルティグレードの珈琲豆が一般価格の半値ほどの店があり、そこの豆の値段が基準となっているので、一般的な価格の店を高い高いというのだ。
昨今の自家焙煎店は一人で独立して経営しているところも多く、高額となる焙煎機を買って、地代も払って経営するには、一般的な価格でも到底安いとは言えない。半値ほどの店は、問屋も兼ねており、一度にかなり大量に豆を焼くし、固定ファンがいて特売日は信じられないほどの数を捌くことになるので、ブレは結構あるとはいえ、あの安さが実現できるのだろう。それでも近年になって、台東区に長年構えていた店舗を、板橋区の荒川沿いの工場街に移転することになったのだから、相当な経営努力があっての価格だったのだと想像する。
ある意味とても特異なケースなわけだが、その特異ゆえに実現できた価格は底値であるはずなのに、それを基準にしてしまっては、他所が高く見えて当然だ。
もしその店がなくなったら、同程度の価格と品質の店を延々と探すのか、それとも、諦めて一般的な価格の店舗で落とし所を見つけるのだろうか。それは本人にしかわからないが、一般的な価格で好みの店が見つかったら、そこを適正価格と思って、買ってあげてほしい。つい、あすこは高いだのと言いがちだが、それなりの仕事をしていれば、それにみあった対価を払ってほしい。
そして上がり方は鈍いとは言え、10年20年と徐々に物価は上昇している。その上昇分はしっかり勘案してほしい。
例えば本で痛感するのだが、単行本は今、モノクロでも1500円くらいするものも結構ある。自分がよく買っていた学生時代は、1000円程度だった。それでも20〜30年で1.5倍と、ラーメンくらいしか値上がりしていない。
本は売れなくなっているので、初版部数が落ち込む分、売れていた頃と同じくらいの利益を出そうと思ったら、1冊あたりの単価が上がってしまう側面はあるものの、逆にいえばその程度の上げ幅で落ち着いているとも言える。
『板橋マニア』が出た時、2000円くらいすることで高いという声が出た。かくいう自分も最初はそう思ってしまった。しかし、フルカラーだし、初版は数千部レベルだったらそれくらいしても可笑しくはない。高いと思う人は自分も含め、この20〜30年本をまともに買ってないのかもしれない。
コーヒーでもそうだが、頭の中にあるこれくらいの値段という固定観念は、20〜30年経って物価が上がってもアップデートはまずされない。コーヒーだって高くて一杯500円程度なんてお客さんから言われたことあるが、それって30〜40年前の価格ですよ。バブル崩壊後、ドトールなどのコーヒーショップが台頭して160円って言い出して、片手間で300円くらいでマシーンで出すカフェとかが出てきたから、そっちが底値になってるだけで、フルサービスの喫茶店がなんで30年前と同じ価格を求められなきゃならんのだと。
こうした感じで、ラーメン一杯500円が30〜40年くらいのイメージで固着してしまっている人が、ラーメン700円800円は高いと言い出す。
ヤフーニュースでも書いたが、事あるごとに私が言うように、その頃に多く食べられていたラーメン、今で言う町中華で食べられるようなラーメンと、ラーメン専門店のラーメンが、同じ価格なわけがない。どっちがいいとか美味しいとかではなく、単純に使う材料の量やかかる調理時間が全然違う(町中華だってスープ半日とか1日煮込む店もあるというような個別案件は除いて大概にして)。
同じラーメンだからというのではなく、消費のされ方も商売の仕方も違うのだから、そこは分けて考えて、補正してほしいところ。もちろん専門店の中でも材料などで価格に開きが出て当然だと思う(実際そうなってるし)。現状、出てくるものに見合う価格になってないと思われるってのは、それだけ店側が飲んでる部分はかなり大きいのではないか。よく何年も休んでないとか、何十年値上げしてないとかいうのを美談にされるが、そういう店側に甘えることが当たり前という、甘えの構造が出来上がっている気がしてならない。
板橋価格の壁
この例として、「板橋価格」という言葉を上げておきたい(ちなみにこの言葉がキライで、自発的に使わないようにしているのだが、別に使うのは個人の自由だし避難したりはしない、為念)。
板橋区にある飲食店を筆頭とした店舗商品の価格が他区と比べてかなり良心的なケースが多いので、そういう言葉があてがわれるのはなんら不思議ではない。
しかしあまりに板橋価格が定着すると、例えば良質なものを使っていた場合、適正な価格、というか適正以上にリーズナブルだったとしても、一般的なその商品に対するイメージより高い価格だった場合、板橋なのに板橋価格じゃないという目で見られてしまう。
先に上げた例でいえば、素材をふんだんに使って長時間煮込んだラーメンで材料費や手間ひまが段違いにかかっても、珈琲豆のグレードが高くてフルサービスだったとしても、1杯700円や800円という大変な努力をしたとしても、ラーメンやコーヒーでそんなすんのかよ!と板橋価格じゃないというレッテルを貼られてしまう。
人の噂に戸は立てられないもので、ボッタクってるなど散々に言われるのがオチで、仕方なく価格を下げて、自分への給料を減らすなど身を削ることで差額を補填することになる。
地価も都心ほどじゃない分、価格を抑えられる利点があるから板橋価格なのに、消費者側の固定観念がアップデートされないことを、その土地柄のせいにして正当化されてしまう。
これはかなりヤバイことで、飲食店にとって危機といっていい。一度値を下げれば、板橋に合わせて頑張ってると言われる分、安い値段がその店のイメージになるから、そうそう値上げは出来ない。
実は自分の珈琲店が建物の建て替えで移転先を探す際、その時には既に板橋区内に住んでいたので、区内で物件探すのが一番イイに決まってる。でも、グレードの高い豆をフルサービスで出していたので、一杯800円とかにしなければとてもじゃないが商売にならない。板橋区に出店したら、同じブロガー仲間にだって何を言われるかわからない。そんな恐ろしいところに出店できるわけがないと、端から板橋は候補から外していた。
いや、板橋価格と最初に口にした人は、そこまでの意味合いは込められてないのかもしれない。単純に、イイものを良心的な価格で手に入れられる程度に使われているのだろうが、一度言葉が独り歩きすると、とんだ板橋障壁が出来上がる事態となる。
これと、「いつまでもあると思うな板橋区」という言葉もある。これは板橋区は良い店に限って閉店するという例えだが、頑張ってる店がこんだけ区民に搾取されたらそりゃ潰れるわなって話。
ラーメンの値段かくあるべし!みたいな固定観念によって、作る側が「あぁ、俺はこれだけのものを作っても、これくらいの価値しかないのか」と諦めがちになってしまう。やはり、それなりの仕事をしていればそれなりの暮らしができる板橋区でないと、今ある店は続けるのがどんどん難しくなるし、新たに店を始める志の高い人も出てこなくなる気がしてならない。
コスパの功罪
以前は自分でもこのブログでよくコスパという表現を用いていたが、単に安いということではなく、高いなりにイイ材料でお値打ちという意味でも使ってきた。
しかし当ブログ、というか自分個人の性質上、かなり単価が安い店が多く、安いこと至上主義のように映ってしまった面は否めないと猛省して、近年はなるべく使わないようにしている。
本心としては、良心的なお店に対して、この価格は妥当じゃない、安すぎるから、むしろ値上げしてほしいからで、他に行った人もそう思ってくれて、そういった声がたくさん上がってくれたらいいなと思っていた。
でも現実はなかなかそうはいかない。コスパの良さが求められる店は、往々にして単価が安いところが多く、せんべろのように、是が非でも千円で何杯かは飲めてツマミもつけられるような店が、ちょっとでもそうではなくなると、コスパ悪いとみなされてしまう。自粛警察じゃないが、そういう重箱の隅をつつくように、質が落ちたとか値上げしただのと、イチイチ食べログなどでレビューつけてくる輩が出てくる。
これも先の庶民派固定観念と一緒で、せんべろでなくてはいけないという圧力により、店の側が身を切るハメに陥っているケースをままみかける。ハイエナといってはハイエナに失礼だが、客の一部が乞食化して、店が忙しすぎて手が回らなくなるとサービス悪くなったなどと難癖つけて、搾り取るだけ搾り取って、また別の、彼らの言うコスパいいターゲットを探すという、なんだか潰しに回っているように見えてならない。
自分が安さを享受するために、文化を滅ぼすようになっては本末転倒だと思うのだが。
町中華が絶滅危惧なのは努力が足りないからか
町中華はよく絶滅危惧とか、後継者がいないとか言われるが、昭和30年代くらいからああいうスタイルの中華店がバーっと増えて、今残ってる店は昭和40〜50年代に創業した店が多いようだ。それくらいの時代までは町中華スタイルで家族を養えたが、今ではそれが困難になっている。後継者がいないというより、現状を見て、とてもじゃないが商売にならないから子供にやらせたくない、という声をよく聞く。
こうした状況になったのは、個人商店の努力不足という声もあるが、個人商店以外に飲食店はたくさんあるし、料理のバリエーションも多い中、町中華に単純に来るお客さんの数が減っているし、材料費など諸々上がっても、板橋価格や庶民の味方を盾にそうそう値段上げられないじゃ、個人の努力ではなんともならない。これまで続けて来たお店はまだ持ち家でやってたり家賃がそれほどでもないケースも多いだろうが、これから始めるとなれば地代が相当重くのしかかるだろうし、今の価格でキャパも限られる個人店がまともに生きていけるわけがない。
メディアではどうしても儲かる話ばかりがピックアップされるが、そんなの極々一部だし、それでさえ、10年後そのまま儲け続けられているだろうか?
昨今、このご時世でテイクアウトをやる店が増えているが、このような状況だから少々高い値段でもニーズがある。これは、お酒を提供するところなら、飲んでもらうことで食事の単価が下げられるといった部分があるから、高くても納得してもらえているのだろうし、一時的なもの、緊急事態と割り切って買い求めているフシもあると思う。
じゃあ、これまでの生活が仮に戻ったとしたら、これまでの安い価格を求めるのだろうか。これを機に、飲食店がやっていける価格のラインに底上げしてはもらえないかなというのが、ヤフーニュースの記事の主旨だ。
でもそれには、買う側の給料も上がってないといけない。ラーメンが一杯1000円になったとして、飲食店のバイトがラーメン一杯1000円でも出せて生活していける給料を貰えれば循環するわけで、それが引いては賃金の引き上げにもつながって、全体としてある程度の底上げがなされないと、それこそ今後経済が回っていかない。
ラーメン一杯1500〜2000円が他国に出来て、日本にできないこと自体をヤバイと思えないことが非常にマズイ気がしてならない。今後、個人店で食事ができる世界で死にたい身としては、いつまでも店側に身を削らせてはいけないというのが持論ということで、終えるとしよう。
「ラーメン一杯1000円以上は高い」論がもはや時代遅れと言えるワケ
について、補足というか書ききれなかった部分があるので、ここに留めておきたい。
ヤフーニュースのコメント欄ではだいぶdisられてるようだが、モノの価値を高いか安いかだけ問うのは、受け手個人個人の価値観の問題なので、それ自身を取りざたするのは不毛と言っていいかもしれない。
ただ、ここで言ってるのはこういう問題ではない。ましてや、原価を考えれば今の価格でも高いという意見があったが、光熱費や家賃などの固定費、諸々差っ引くと、どんなに原価安くとも、そんなに手元に残るものではない。安い材料でアホみたいに人が来る時代ではないし、ハッキリ言ってラーメン屋は、コストもそうだし、拘束時間、体力的な部分でも、仕事として効率が悪すぎる。
飲食店が続けられるために、必要な売上が現状の価格では殆どの店でしっかりと担保できず、これからの経営を見据えた時に、従業員にも給料を払えて、店もある程度蓄えを備えられて、自らも家族を養えて年に数回は旅行に行けるくらいの金銭的時間的ユトリが持てるくらいでないと、ラーメン屋、ひいては個人・家族規模の飲食店はなくなってしまうのではないか。
現状、このコロナ禍で、ほんの1〜2ヶ月程度持たないという、飲食店の経営体力の実情を見せつけられた訳で、そこは食べ手も、それなりの仕事をしているものに対しては、しっかり店主が生きていける対価を支払うという意識を持たいないとホントにヤバイことになるぞと思われたのではないだろうか。
適正価格は本当に適正な価格なのか?
なんでそんなにラーメン一杯の値段が、この20〜30年で1.5倍程度しか上がってないのかというと、やぱり横の様子というか、よほどの付加価値をつけない限り、他店よりかなり高い値段を付ける勇気がないんだと思う。
同じような内容だったら安い方に行くのは人間の心理で、そのために、本当はもうちょっとほしいところでも、高くしてお客さん来ないんだったら、ちょっとは利益分を自分が飲んで、世間が思う適正価格に合わせざるを得ない。
こういう現象を目の当たりにしたのがスーパー銭湯で、台頭した頃、多くの施設が2000円近い価格設定をしていた。よく考えれば、広大とも言える土地で、銭湯の何倍もの湯船・カランの数があって、水だって大量に使うんだから、それくらいしたって可笑しくない。健康ランドがだいたい2000円くらいだから、その辺の価格設定になるのだろうが、お客さん来ないんで、徐々に下げていって、だいたい7〜800円くらいで落ち着く。
消費税増税とかで、今は800〜1000円くらいの施設が多いが、あれだけ風呂やサウナや食事処、休憩室まで整っていて、銭湯の倍くらいの値段というのはやっぱりおかしい。でもそれがだいたいのスパ銭の適正価格となると、健康ランドが高く見えて、価格を下げたり、クーポンつけたり、曜日ごとにタイプの違うサービスデーを設けて、なんとかスーパー銭湯レベルで入れる努力をしている。
自分も店をやっていたからわかるが、ちょっとでも世間の適正価格(そんなもんないんだけど、一般の人がそう思っているであろう値段)より高いだけで、高い高いとめっちゃ言われる。気にしなきゃいいと思われるかも知れないが、このプレッシャー、ストレスたるや、もう半端ない。
先のスパ銭の例でいえば、じゃあ価格を半分に値下げしたら、倍のお客さんに来てもらわなきゃいけない。スパ銭の場合は、もしかしたらこれが実現できるかもしれないが、飲食、特に自分のやっていたような珈琲店は、値段を半分にしてもお客さんはまず倍は来ない。仮に来たら、仕事が倍になるわけで、これまで一人で回したものが回せなくなって、バイトなりを雇うこととなる。給料を払うには、またさらに売上がないとならなくなり、だったら一人でやるとなれば、仕事のスピードアップや効率化を優先し、品質は二の次にせざるを得ない。品質をキープすれば、安いのに数が裁けず、実入りはすくなるなる。もう既に行くも地獄、退くも地獄の状態だったとも言える。
底値=適正価格というバイアス
この状況を打開するには、なんとか消費者側に、これまで安すぎた価格を本来の適正価格に戻す頭にしてもらう術はないものだろうか。
それには、底値が適正価格になるという発想を変えてもらうしかないと思っている。
自分の知り合いの話だが、スペシャルティグレードの珈琲豆が一般価格の半値ほどの店があり、そこの豆の値段が基準となっているので、一般的な価格の店を高い高いというのだ。
昨今の自家焙煎店は一人で独立して経営しているところも多く、高額となる焙煎機を買って、地代も払って経営するには、一般的な価格でも到底安いとは言えない。半値ほどの店は、問屋も兼ねており、一度にかなり大量に豆を焼くし、固定ファンがいて特売日は信じられないほどの数を捌くことになるので、ブレは結構あるとはいえ、あの安さが実現できるのだろう。それでも近年になって、台東区に長年構えていた店舗を、板橋区の荒川沿いの工場街に移転することになったのだから、相当な経営努力があっての価格だったのだと想像する。
ある意味とても特異なケースなわけだが、その特異ゆえに実現できた価格は底値であるはずなのに、それを基準にしてしまっては、他所が高く見えて当然だ。
もしその店がなくなったら、同程度の価格と品質の店を延々と探すのか、それとも、諦めて一般的な価格の店舗で落とし所を見つけるのだろうか。それは本人にしかわからないが、一般的な価格で好みの店が見つかったら、そこを適正価格と思って、買ってあげてほしい。つい、あすこは高いだのと言いがちだが、それなりの仕事をしていれば、それにみあった対価を払ってほしい。
そして上がり方は鈍いとは言え、10年20年と徐々に物価は上昇している。その上昇分はしっかり勘案してほしい。
例えば本で痛感するのだが、単行本は今、モノクロでも1500円くらいするものも結構ある。自分がよく買っていた学生時代は、1000円程度だった。それでも20〜30年で1.5倍と、ラーメンくらいしか値上がりしていない。
本は売れなくなっているので、初版部数が落ち込む分、売れていた頃と同じくらいの利益を出そうと思ったら、1冊あたりの単価が上がってしまう側面はあるものの、逆にいえばその程度の上げ幅で落ち着いているとも言える。
『板橋マニア』が出た時、2000円くらいすることで高いという声が出た。かくいう自分も最初はそう思ってしまった。しかし、フルカラーだし、初版は数千部レベルだったらそれくらいしても可笑しくはない。高いと思う人は自分も含め、この20〜30年本をまともに買ってないのかもしれない。
コーヒーでもそうだが、頭の中にあるこれくらいの値段という固定観念は、20〜30年経って物価が上がってもアップデートはまずされない。コーヒーだって高くて一杯500円程度なんてお客さんから言われたことあるが、それって30〜40年前の価格ですよ。バブル崩壊後、ドトールなどのコーヒーショップが台頭して160円って言い出して、片手間で300円くらいでマシーンで出すカフェとかが出てきたから、そっちが底値になってるだけで、フルサービスの喫茶店がなんで30年前と同じ価格を求められなきゃならんのだと。
こうした感じで、ラーメン一杯500円が30〜40年くらいのイメージで固着してしまっている人が、ラーメン700円800円は高いと言い出す。
ヤフーニュースでも書いたが、事あるごとに私が言うように、その頃に多く食べられていたラーメン、今で言う町中華で食べられるようなラーメンと、ラーメン専門店のラーメンが、同じ価格なわけがない。どっちがいいとか美味しいとかではなく、単純に使う材料の量やかかる調理時間が全然違う(町中華だってスープ半日とか1日煮込む店もあるというような個別案件は除いて大概にして)。
同じラーメンだからというのではなく、消費のされ方も商売の仕方も違うのだから、そこは分けて考えて、補正してほしいところ。もちろん専門店の中でも材料などで価格に開きが出て当然だと思う(実際そうなってるし)。現状、出てくるものに見合う価格になってないと思われるってのは、それだけ店側が飲んでる部分はかなり大きいのではないか。よく何年も休んでないとか、何十年値上げしてないとかいうのを美談にされるが、そういう店側に甘えることが当たり前という、甘えの構造が出来上がっている気がしてならない。
板橋価格の壁
この例として、「板橋価格」という言葉を上げておきたい(ちなみにこの言葉がキライで、自発的に使わないようにしているのだが、別に使うのは個人の自由だし避難したりはしない、為念)。
板橋区にある飲食店を筆頭とした店舗商品の価格が他区と比べてかなり良心的なケースが多いので、そういう言葉があてがわれるのはなんら不思議ではない。
しかしあまりに板橋価格が定着すると、例えば良質なものを使っていた場合、適正な価格、というか適正以上にリーズナブルだったとしても、一般的なその商品に対するイメージより高い価格だった場合、板橋なのに板橋価格じゃないという目で見られてしまう。
先に上げた例でいえば、素材をふんだんに使って長時間煮込んだラーメンで材料費や手間ひまが段違いにかかっても、珈琲豆のグレードが高くてフルサービスだったとしても、1杯700円や800円という大変な努力をしたとしても、ラーメンやコーヒーでそんなすんのかよ!と板橋価格じゃないというレッテルを貼られてしまう。
人の噂に戸は立てられないもので、ボッタクってるなど散々に言われるのがオチで、仕方なく価格を下げて、自分への給料を減らすなど身を削ることで差額を補填することになる。
地価も都心ほどじゃない分、価格を抑えられる利点があるから板橋価格なのに、消費者側の固定観念がアップデートされないことを、その土地柄のせいにして正当化されてしまう。
これはかなりヤバイことで、飲食店にとって危機といっていい。一度値を下げれば、板橋に合わせて頑張ってると言われる分、安い値段がその店のイメージになるから、そうそう値上げは出来ない。
実は自分の珈琲店が建物の建て替えで移転先を探す際、その時には既に板橋区内に住んでいたので、区内で物件探すのが一番イイに決まってる。でも、グレードの高い豆をフルサービスで出していたので、一杯800円とかにしなければとてもじゃないが商売にならない。板橋区に出店したら、同じブロガー仲間にだって何を言われるかわからない。そんな恐ろしいところに出店できるわけがないと、端から板橋は候補から外していた。
いや、板橋価格と最初に口にした人は、そこまでの意味合いは込められてないのかもしれない。単純に、イイものを良心的な価格で手に入れられる程度に使われているのだろうが、一度言葉が独り歩きすると、とんだ板橋障壁が出来上がる事態となる。
これと、「いつまでもあると思うな板橋区」という言葉もある。これは板橋区は良い店に限って閉店するという例えだが、頑張ってる店がこんだけ区民に搾取されたらそりゃ潰れるわなって話。
ラーメンの値段かくあるべし!みたいな固定観念によって、作る側が「あぁ、俺はこれだけのものを作っても、これくらいの価値しかないのか」と諦めがちになってしまう。やはり、それなりの仕事をしていればそれなりの暮らしができる板橋区でないと、今ある店は続けるのがどんどん難しくなるし、新たに店を始める志の高い人も出てこなくなる気がしてならない。
コスパの功罪
以前は自分でもこのブログでよくコスパという表現を用いていたが、単に安いということではなく、高いなりにイイ材料でお値打ちという意味でも使ってきた。
しかし当ブログ、というか自分個人の性質上、かなり単価が安い店が多く、安いこと至上主義のように映ってしまった面は否めないと猛省して、近年はなるべく使わないようにしている。
本心としては、良心的なお店に対して、この価格は妥当じゃない、安すぎるから、むしろ値上げしてほしいからで、他に行った人もそう思ってくれて、そういった声がたくさん上がってくれたらいいなと思っていた。
でも現実はなかなかそうはいかない。コスパの良さが求められる店は、往々にして単価が安いところが多く、せんべろのように、是が非でも千円で何杯かは飲めてツマミもつけられるような店が、ちょっとでもそうではなくなると、コスパ悪いとみなされてしまう。自粛警察じゃないが、そういう重箱の隅をつつくように、質が落ちたとか値上げしただのと、イチイチ食べログなどでレビューつけてくる輩が出てくる。
これも先の庶民派固定観念と一緒で、せんべろでなくてはいけないという圧力により、店の側が身を切るハメに陥っているケースをままみかける。ハイエナといってはハイエナに失礼だが、客の一部が乞食化して、店が忙しすぎて手が回らなくなるとサービス悪くなったなどと難癖つけて、搾り取るだけ搾り取って、また別の、彼らの言うコスパいいターゲットを探すという、なんだか潰しに回っているように見えてならない。
自分が安さを享受するために、文化を滅ぼすようになっては本末転倒だと思うのだが。
町中華が絶滅危惧なのは努力が足りないからか
町中華はよく絶滅危惧とか、後継者がいないとか言われるが、昭和30年代くらいからああいうスタイルの中華店がバーっと増えて、今残ってる店は昭和40〜50年代に創業した店が多いようだ。それくらいの時代までは町中華スタイルで家族を養えたが、今ではそれが困難になっている。後継者がいないというより、現状を見て、とてもじゃないが商売にならないから子供にやらせたくない、という声をよく聞く。
こうした状況になったのは、個人商店の努力不足という声もあるが、個人商店以外に飲食店はたくさんあるし、料理のバリエーションも多い中、町中華に単純に来るお客さんの数が減っているし、材料費など諸々上がっても、板橋価格や庶民の味方を盾にそうそう値段上げられないじゃ、個人の努力ではなんともならない。これまで続けて来たお店はまだ持ち家でやってたり家賃がそれほどでもないケースも多いだろうが、これから始めるとなれば地代が相当重くのしかかるだろうし、今の価格でキャパも限られる個人店がまともに生きていけるわけがない。
メディアではどうしても儲かる話ばかりがピックアップされるが、そんなの極々一部だし、それでさえ、10年後そのまま儲け続けられているだろうか?
昨今、このご時世でテイクアウトをやる店が増えているが、このような状況だから少々高い値段でもニーズがある。これは、お酒を提供するところなら、飲んでもらうことで食事の単価が下げられるといった部分があるから、高くても納得してもらえているのだろうし、一時的なもの、緊急事態と割り切って買い求めているフシもあると思う。
じゃあ、これまでの生活が仮に戻ったとしたら、これまでの安い価格を求めるのだろうか。これを機に、飲食店がやっていける価格のラインに底上げしてはもらえないかなというのが、ヤフーニュースの記事の主旨だ。
でもそれには、買う側の給料も上がってないといけない。ラーメンが一杯1000円になったとして、飲食店のバイトがラーメン一杯1000円でも出せて生活していける給料を貰えれば循環するわけで、それが引いては賃金の引き上げにもつながって、全体としてある程度の底上げがなされないと、それこそ今後経済が回っていかない。
ラーメン一杯1500〜2000円が他国に出来て、日本にできないこと自体をヤバイと思えないことが非常にマズイ気がしてならない。今後、個人店で食事ができる世界で死にたい身としては、いつまでも店側に身を削らせてはいけないというのが持論ということで、終えるとしよう。