カテゴリ: 町歩き・古建築・廃墟

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お待たせしました。拙ミニコミ誌の新刊入稿も終わり(詳細は明日UPしやす)、ホッと一息ということで、年末恒例の酉の市に出かけてきた。
いや酉の市は11月の酉の日に行われるので、厳密に言えば異なるのだが便宜上。いわゆる熊手売るお祭りで、当ブログでも川口のおかめ市筆頭に、これまで事あるごとに紹介してきた。仕事の関係で熊手は毎年求めているのだが、私の地元、川口のおかめ市【過去記事:04年06年10年】では古熊手を納める正式な場所がないことから、まぁこういうのは縁起物なので気持ち的にキチンと奉納したいと、11月中に吉原の鷲神社の酉の市に納めに行くのだが、今年は日程的にどうしても赴く事が出来なかった。
となると、12月に多く東京近県で開催されるこの手の祭事となるが、行ける範囲で主だった所では、大宮の十日市(とおかまち)【過去記事】、和楽備神社酉の市【過去記事】、西新井納めの大師【公式】、鳩ヶ谷おかめ市【公式】とある中で、未訪となる浦和の十二日市(じゅうにんちまち)に行ってきた。

浦和駅西口から南西へ800m程にある調神社(つきじんじゃ。通称つきのみや)で行われ、至る沿道にテキヤが並ぶという。久々の浦和駅は改装工事中で、改札周りがキレイになってて驚いたが、西口へ出るとテキヤのオレンジの灯りが見当たらないので、蕨の時のように神社付近まで行かないとダメなのかと不安になった。しかし人出は多く、通勤と思えない格好も目立つから、その人らが向かう方へついていくことに。
すると、駅前ロータリーにあるデパート浦和コルソにへばりつくようにテキヤが歩道を埋め尽くしていた。
コルソ前@浦和十二日まち
コルソがこれを許すとは、地域に開かれてるねぇ〜
しかし人並みは路地へ路地へと流れる。一瑳という塩ラーメンで有名な店がある路地だ。帰りに手繰ろうと思っていたのだが、あらら、20人近く並んでるわ。
行列尻目に路地を抜けると、一気に視界が開け、テキヤの灯りが沿道を埋め尽くしている光景が待っていた!
テキヤ風景@浦和十二日まち
これよ、コレ! これ見ないことには年を越せないってんだ。
再開発@浦和十二日まち周辺は再開発が進んでいるようで、空地となった土地の向こうに高層マンションが見える。そんなにシャレオツなマンションが建とうが、昔からの地元の祭のパワーの前にはタダのハコ。地元のヤバそうなのやら上下スエットのDQNな家族連れが大挙してきている。いつもこの手の光景をみると胸がスカっとする。小さいヤツだと笑わば笑え。この快感はアンチ巨人なんかの心境に近いね。大勢によらない天邪鬼小市民ですわ。

お好み焼きや肉の焼き物系といったテキヤ王道の、醤油やソースの香りに酔いしれながらJKやらなんやらの人波をヨレヨレと進む(ルーズソックスいま逆にアリなんかね)。
JK@浦和十二日まち
射的@浦和十二日まち
射的なんかは結構多いのだけど、綿菓子は減ったね。
富士宮やきそば@浦和十二日まち
そんな中、昨今はご当地B級グルメが本当に増えてきたが、なんと富山ブラックラーメンまでやるようになったとは。そこまで認知度あるのか、それ早すぎね?
富山ブラック@浦和十二日まち
食ってけよ!というツッコミが入りそうだが、古熊手と荷物で手が塞がっているので後で。取り急ぎ先へ。すると、メインストリートらしき道にぶつかった。
うなぎ屋@浦和十二日まち
古くからある道だろうか、神社の参道だったのか、通り沿いには歴史ある商店建築が残っている。おおっ、これは浦和名物の鰻屋まで!?と興奮して沢山写真に収めたいところだが、もう人で人でまともに写真が撮れる状況じゃない。規模的には川口おかめ市と同等かそれ以上、大宮十日市レベルだな。建物はまた日を改めて撮影に来るとしよう。
お茶屋@浦和十二日まち
お茶屋正面@浦和十二日まち
お茶屋も軒先に台を出しているが、どの物件もとてつもなく素晴らしい。じっくり拙ミニコミ誌で特集組むかな。

エッチラオッチラ進むこと十数分、やっと調神社が見えてきた。境内脇にかっこめと古熊手と受付が2つある納札所を発見!
納札所@浦和十二日まち
神社では熊手は受け付けない所が多いが(下衆の極み!だからかなw)、これは嬉しい配慮。1年の感謝を込め納札。
調神社@浦和十二日まち
神社でお参りをして、境内をぶらり。

この境内、広いのに加え起伏に飛んでおり、回遊式庭園のように道を進んでいると、どうやら一部は公園となっているようで、小高い丘からテキヤと人混みが一望できた。
神社境内上から@浦和十二日まち
キレイやな〜。周りに地元ヤンキーのカップルがいたりなんかして、更にお祭り気分がヒートアップ。すると遠くから何やら懐かしい呼び込みの声が。もしやそんな・・・頭では否定しようとするも、この耳馴染んだ声を間違えるわけがない。声のする方に目をやると、まさかの見世物お化け屋敷ハケーン!
お化け屋敷@浦和十二日まち
川口のおかめ市では1年置きに見世物とお化け屋敷が入れ替わっていたが、もう5年近く催されていない。酉の市では花園神社で見世物の興行をしているが、一部お化け屋敷となって喜多院の川越まつりでも興行していると聞く。大宮でも見られなかったので、浦和でまさかと思ったが。
お化け屋敷なか@浦和十二日まち
まぢか!? 興奮気味に近づくと、あのオバちゃんの口上が反響している。人が操作するヒトダマ、ビビる子供、背中をつつき合う中学生男女グループ・・・アツイ、アツイなぁ。
画質は悪いが20秒ほど動画がとれたので、UPしときますわ。

動画が再生されない場合はこちら
興奮覚めやらぬまま熊手のエリアに。見慣れた屋号の幟が並ぶ。
熊手@浦和十二日まち
神社全体の割に狭く、少々見劣りして残念。
ピットイン@浦和十二日まち
高く並べられた熊手の裏手に、一際大きなピットインこと居酒屋休憩スペースが広がる。ここで温かいワンカップ片手に串焼きやもつ煮でマッタリしたいところだったが、気づくと結構夜が深けてきている。手身近に何かガッツイて帰ろう。

メインストリートに愛しの玄米パンが出ていたのを思い出し向かうと、通りは22時で交通規制が解除されるそうで、21時半には撤退準備に入るよう警察からのアナウンスが流れ始めていた。見ると玄米パンのテキヤの蒸篭には在庫なし。ガビーン。
あ、ここに来るまでに、境内を出たところのチキンステーキが旨そだったと慌てて踵を返すと、そこには人だかりが。まだやってる!
見ると塩コショウや和風ソースなどから選べるようだ。ここはチキンステーキ¥300を甘ダレで行きやすか。
オーダーが入ると食べやすいようにコテで真ん中を7分ほど割り、全体を鉄板に押し付けて焦げ目を付けてから出してくれるのだが、この最後のコテ押しの時に出る肉汁が鉄板に滴りジュバーっと泡立ち湯気が立ち込める様がなんともソソる!
割り箸を口に咥え、パシャリ(暗いところしかなくて写り悪くてゴメン)。
チキンステーキ@浦和十二日まち
早速いただくと、これがもう想像以上にジューシー。ホクホクの身にパリッと適度な焦げ目がついた皮との食感のコントラストがもうヤヴァすぎる。滴る油がドロサラの甘辛のソースに合わさってもうタマラナイ。付け合せの炒めたキャベツがまたこのソースに合うんだ。以前牛串を奮発して買ったらパッサパサで痛い目にあって、テキヤ料理の見た目と匂いにダマされないと誓ったが、そんな禁を犯してまでこの日はチキンに手を染めて本当によかった。

しかしこの甘ダレ、太田裕美じゃないけど(ちょっともうキビしいネタか)、

味が濃くて喉乾くんですわ。なんか飲みたいけどここからピットインまで引き返せないし、パンみたいなのもいいカンフル剤になるけど玄米パンはもうないしで、どうしたもんかとメインストリートを歩いていると、駅近くで信州おやきの屋台がまだやっていた。
おやき外観@浦和十二日まち
さっそく、ナス¥200を購入。
なすおやき@浦和十二日まち
おやきってあんま良いイメージなかったけど、これは焼きたてでウマイ! 分厚い生地の粉っぽさとモチモチ感のバランスが絶妙。やや粉っぽさによったくらいが、逆に田舎まんじゅう的な良さがあるし、食べごたえもあって丁度いい。これが粉っぽ過ぎちゃうと喉乾いてキツくなる。中の餡はもうナスなんだかわかんないくらいドロドロになっているが、ナチュラルな甘みもあって、なんだかしんないけどアツアツでメチャメチャ美味しい。祭りで食う効果も後押ししていようが、さっぱりと最高の〆の一口となった。

といいつつ、この後結局一杯手繰って帰ったのだが、それはまた後日ってことで。
いやはや、この規模の年末大歳が浦和にあったとは。川口おかめ市と並んで痛く気に入ってしまった。また来年も是非来たい。
もう最高!と、まだまだ浮き足立った人々に紛れ、帰途に着くのだった。

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本木新道TOP
環七と荒川の間、尾竹橋通りと併走する裏道のような商店街がある。
この本木新道は旧街道の趣があり、シャッターも目立つが未だ商店が軒を連ねている。
この通りは西新井マルジへ向かう時など、何度も通ってきたし、このブログにも数度登場した。過去のエントリーのなかでも、あの酒場は今でもグッとくる。他にも今回の散策を通して魅惑的なお店に出会えたので、明日以降追って紹介することにしよう。

本木新道物件01本木新道物件02
で、今回は通り沿いの物件をば。
本木新道キメラ車の往来が多く撮影に苦労したが、シャッターが下りた店舗が多いとはいえ、これだけ交通のある場所、案の定取り壊し、建て直しが目立つ。自分が知るこの数年だけでも相当数の物件が消滅した。しかしいかにも昭和チックな古い物件がいくつか現存している。
長屋的商店建築も多く、こうした取り壊しに際して、トマソンのような様相を呈するものも少なくない。セブンイレブン脇の物件などは側面がなんだかよくわからなくなっている。
この物件の対面にはkai-wai散策のmasaさん命名のサビオウがある。このブログよりもサビオウほか、本木新道歩きの詳細レポが掲載されているので、是非参照アレ。
サビオウ01サビオウ02

さてこの本木新道、さぞ歴史ある旧道かと思いきや、あちこちの情報を総合すると、農業用水と思しき川に沿った道で、川が暗渠化された際に今のような幅の道になったそうだ。
暗渠化される前の道沿いにも商店は存在していたようだが、昭和30年代から今のような商店街の形になったと推測される。するとだいたい4〜50年の歴史といったところか。
○○銀座と呼ばれるタイプの商店街の走りが戸越銀座で関東大震災後、銀座の瓦礫で低地を埋め立てたことが由来とされているが、比べればまだ歴史の浅い方かもしれない。
しかし商店街が増えたのが戦後からほぼ趣を変えずに現存していることを考えると貴重な商店街ではないだろうか。


商店街から路地に入ると、とりわけ西側は区内とは思えないような農村的風景が広がる。
トタン平屋こうした風景の中に公営住宅のような平屋も散見できた。足立区には団地も多いが、平屋住宅も結構見受けられる。青いトタンが映え、独特の空気が満ちている。
足立区全体にいえるのだが、歴史的な風景は神社仏閣の江戸的なものではなく、寺社や道祖神などの農村的なものが目に付く。実際に畑もあり、農家の方が買物に本木新道へ出てくるという昔の様子が想像できる。
しかしそもそもなぜ農業用水の脇道に商店が並ぶようになったのかが不思議ではあるが、この本木新道は東武鉄道の大師前駅から南に延びていることからも、西新井大師の参道という見方が妥当だろう。
実際、明治時代、大師道に新道が出来たことが由来という記述もあった。もしかしたら気づかないところで歴史的物件が埋もれているかもしれない。

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前回の続き

福島屋旅館を出てすぐ右手が熱海銀座。○○銀座といういわゆる商店街なのだが、どこか寂しく、旧時代の温泉街である雰囲気が漂う。まぁそう遠くない範囲にバァさんが出てくるような温泉ストリップやスマートボールも現存するから仕方ないのだろう。
銀座スナック街しかし単に銀座を冠した商店街というわけでもないようで、町名自体に銀座と名づけられている。町中には糸川が流れ、ここから海まで200mほどの距離になる。糸川を挟んで向こう岸が中央町、川に沿って暫し、海側が渚町となっている。この糸川縁中央町のエリアに赤線があり、ご存知のようにそれまでは黙認された公娼だったわけだが、昭和32年いっぱいで営業停止になった後は、渚町に青線、つまり私娼として移った。渚町の青線がいつ頃まで続いたかわからないが、糸川の赤線は当時(このサイト文末参照)相当名を馳せていたらしい。

熱海銀座から糸川へ十数mの距離だがこのエリアはさすがに赤線の名残は感じられないものの、現在はスナックの類が犇いており、独特のトーンで彩られている。
糸川を渡り中央町に入ると、なにやらドヨンとしたカタギでない空気がなんとなく辻辻から漏れている。ラーメン屋など飲食店の姿をしているが、2F部分の手摺の木型に意匠が施されていたり、タイル張りの壁に電灯のガラスボール、丸窓もあった。
糸川ラーメン屋糸川丸窓

糸川不動産屋だんだんテンションも上がって来ると感がさえるのか、路地へ路地へと入っていくと、湾曲して模られた正面2F部を持つ不動産屋を発見。さらにはかなりの大店だったと思われる、紋章も立派な物件。屋号は「つたや」だろうか。コーナーの湾曲とトップの波の入り方がキレイだ。
糸川つたや思った以上の現存率でつい浮き足立ってしまうが、イマヒトツ、本当に娼館だったのかという煮え切らないものがあった。歴史的背景から見てもそうである可能性のほうが高いのだが、もう少し年代の新しい単なる旅館だったんじゃないか、なんても思ってしまう。
というのは、意匠がイマイチ凝ってないのだ。あの不動産屋は確定までも、タイルならもっと彩があってもいいし、柱の飾りなど木部ももっとクネクネしててもいいんじゃないか。

まぁこの界隈の当時の建築流行がそっちに向かなかっただけなんだろうが、そんなことを考えているうちに熱海街道という車通りに出た。さてどうしたものか、このまま海に出ようかなぁと辺りを見回すと、突如、目の前に厳つい物件が現れた。
熱海交通1
熱海交通2周囲に同サイズの旧赤線物件がないから余計存在感がある。現在は熱海第一交通というタクシー会社が入っているようで、1F部分はぶち抜かれてタクシーが洗車などをするスペースになっているが、丸窓跡なんかが残っていて、そういうところにホースをかけたりしているのがなんとも可笑しい。
2F部は事務所として使われているのかわからないが、外から見ると形状は殆ど残されている。窓ごとの上部半円と屋根の看板部分の模様がリンクしている。ここも半円の中に意匠があったりはしないから、やはりそこがこの土地の特徴なのだろうか。
熱海第一交通の裏側に回り海側を目指す。それっぽい雰囲気はあるものの、特徴的な物件はなかった。

床屋ムリからトタン物件しかし細い路地には古くからの床屋が残っていたり、湾曲して飛び出た窓部分に強引にトタンで隠した旧旅館物件(娼館?)があったりと路地歩きとして飽きない。

渚町にげておいで国道135号に出た。渡った先が渚町となる。こちらにもスナック街が広がっているのだが、一昔前の、というよりリアルタイムでカタギでない空気が漂っている。北上した先に風俗店が点在しているからだろうか。
こっちまで行かなければ、古そうなスナックが並ぶ町並み。一つのスナックが目に付いたのだが、「ここににげておいで」というステッカーが。ムリムリ。なにかあっても子供はココには逃げ込まないだろう。つーか、逃げ込んだ方がエライ目にあいそうだ。

渚町青線この先にスナック街になっている細い路地があった。昔からの水商売の街角といった雰囲気だが、その中の一つにTHE私娼跡ともいうべきインパクトありすぎの物件が浮きまくっていた。
もう写真の通り、何の説明も要らないだろうが、2Fのバルコニーの梅にくり貫かれた感じに、手摺部分が波打っているのがすごくいい。きっとこんな建物が連なっていたんだろうなぁ。

渚町廃墟
これだけの物件が発見できれば大収穫だろうと、帰途につこうとしたら、あらら、目の前にホテル?アパート?中途半端な高さの廃墟がドカンと鎮座していた。錆び具合や植物の繁茂の仕方が廃的にキているが、ダクトの走りっぷりが余計それを助長している。なかなかの圧迫感がある。つい見入ってしまった。

もう十分だろうとデジカメの残量もこの先を考えると心配になってきたので切り上げることにした。再び国道135号に戻り銀座に入ると、ふと足元が気になった。踏んでいるマンホールを見ると、なんと温泉マークが!
温泉マンホール今日の路上観察を招いてくれたようで嬉しくなった。
足取りも軽く熱海駅へ向かい、さてここからは電車で移動だ。

続く

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今日もカワグチ迷子ぉ〜♪ といわんばかりに2年ぶりに彷徨ってきやした川口のおかめ市。とはいっても勝手知ったる川口東口。迷うことなどないのだが、人ごみに紛れるというのは沢山人がいるのに独りな感じが良いのですなぁ。
そんな気分を味わいに2年ぶりのおかめ市に川口駅前に降り立った。2年前のレポはコチラを参照をば。その時にも記したが、川口では12月の15日に開催される酉の市をおかめ市という。この呼び名が絶対正義なので、新住民は朱に交わってください!

駅前に川口一丁目1番地再開発計画としてキュポ・ラというショッピングセンターが出来上がっていたのは知っていたが、甘太郎こと大判焼の太郎焼が入るキャスティにSOGOがデッキで繋がる様を見ると、本当にここでおかめ市が開催されるのか不思議でならない。
しかし川口モンスターというビジュアル系ライブハウス(今はクラブになっていた)やひまわり模型があった通りはテキヤでごった返していた。いつもは真新しいマンションに見下されているようなうら寂しい光景だが、今日ばかりはこっちが主役とばかりに、発電機により光る裸電球のオレンジの灯りが煌々と輝いている。

一番込み合う7〜8時台にはチト早いが、それでもなかなかの人手。人並みに飲まれながらドネルサンドや唐揚げの臭いに誘われていると、まだ残っていた、型抜き! しかも小学生が大勢たむろして画鋲の先で型を真剣な眼差しで切り取っている。ヒジョーに正しい。


人の流れにまかせて屋台をみたりブラブラ。まだミドリガメ掬いもやっていた。出張大衆居酒屋のような飲み処も健在。川口神社真裏にあるせんべい屋もまだ営業していた。オジイチャンが店に立っていた。

前回レポした、毎年込み合う、川口神社裏手へ向かう狭い路地にある立派な和洋折衷の物件は未だ変わらぬ姿を残していた。


一通りぐるりと回り、川口神社に入る。昔傷痍軍人がいた門を抜け、未だPC―98みたいなパソコンを出す毎度のコンピュータ占いの脇を通り、お参り。


右手に移るとここからは熊手エリア。相変わらずの盛況ぶりで運良くヨヨヨイのタイミングで写真が撮れた。以前は熊手を売る通りが2筋あった気がするのだが1筋のみ。規模が縮小した気がする。既に巣鴨の酉の市で熊手は購入していたので、ここはスルー。巣鴨の酉の市は小規模で熊手売りの数も少なく、写真でお見せするほどのものはなかったのだが、顔見知りが集まったような和気藹々とした雰囲気でなかなかよかった。まぁ川口で熊手を買っても良かったのだが、一昨年みたときに飾りがキ○ィみたいなファンシーなのが多くて見送ったのだが、今年はトラッドなデザインが多かった。来年以降、来れたら川口でもいいかな。
熊手エリアから神社裏手までの間は射的などがメインになっていて、未だ多くの射的が軒を連ねる。ここに以前は見世物小屋が来ていた。ちょうど昨年花園神社で撮った写真があるので載せておこう。射的といえば、今回はたまたまか見つけられなかったが、景品にAVがあったりする。人前で打つかね? 小学生軍団いたら絶対からかわれるし。

さて再び人ごみに飲まれ来た順路を戻ると、先の和洋折衷物件の路地を出たところに今年も玄米パンの屋台が出ていた。おかめ市といったらコレでしょ!とばかりにホックリ顔で店前に立つと・・・あれ? 玄米パンの形状が違う? 思わずスルーしてしまった。ありゃ市販されている五月堂の玄米パンじゃないか。まぁ取り扱っている店もあまりないし、好物なので文句はないのだが。屋台に戻ってあんなしを1つ購入。200円也。50円値上がりしている。フツーに買っても3コ入って400円近くするからまぁ妥当でしょ。吹かしてあるしね。家だとなかなか蒸せないし。
で、久々に食べたが、悔しいほどうまい。一昨年までは食べられた手づくりの玄米パンが食べられない悔しさから、市販のは旨くてはいけないのだが、大好きなだけに旨くてしかたない。しかし改めて市販のを食べてみると、同じ玄米パンでもあまりの違いに驚く。五月堂のは(写真左)外の皮が膜のように張っていて、中はいわゆる蒸しケーキのような状態でふんわりと甘いのだが、手づくりのは(写真右)外皮の境目が殆どなく、しっとりねっちりした食感で、蜜の甘さがじわ〜っととろける感じなのだ。やはりこういう場所では後者が食べたいのだ。原価考えれば手づくりの方がはるかに安いが、労力に見合うほど売れないんだろうなぁ。


これでまたひとつ、好きな味が想い出になってしまった。
おかめ市自体は周囲にどんなマンションやビルが建とうとも活気に溢れている姿を見せてくれて頼もしいほどだったのだが、やはり玄米パンショックは拭いきれない。確か吉原の鷲神社の酉の市にも玄米パンあったから、来年確かめに行こう。酉の市に限らず、手作り玄米パン情報あったら遠慮なくコメント乞う!

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前回の続き

そごう1Fの横浜市営バス7番乗り場から103系統というバスに乗り込む。
戸部から野毛を経由して、伊勢佐木長者町でイセザキモールを横切り、首都高狩場線を越えたあたり、これまでの繁華以外の風景から急に山を切り崩したような郊外的風景へと一転する。フェリスのあたりをご存知の方ならわかると思うが、市街地と港周辺以外は急な坂が多く、山手のあたりは完全に山状態。
バスはぐんぐん坂を上り、山元町というエリアに入る。少し寂しい感じの商店街が道路脇に続くが、うらぶれた感じはなく、寧ろ鎌倉(小町通りとかではなく由比など海沿い)のポツネンとした商店街の雰囲気に近いものがある。
この山を越えれば根岸、という手前、山元町4丁目というバス停で下車する。根岸台という大地が広がっていて、近くに米軍の用地があるからか、英語表記の看板が目立つ。工事中に付き米軍関係以外の車両の進入を禁止する旨の看板が行く手を塞ぐが、これは予定通りと、無視して(徒歩だしね)スロープ状の坂道を上る。
上りきったところは根岸森林公園の入口になっていて、通路を挟んで左右両方に公園のゲートがある。公園に入るにはどちらかを通ればいいのだが、あたしゃ目的が違う。道路の先にある真正面のゲートこそが問題なのだ。
是非みていただきたかったのだが、ビビリな自分には写真撮影はムリ。だって米兵がライフル抱えて待機小屋からこっち見てんだもん! ハ〜イ!なんて間抜けな観光客を演じれば上手いこと行くのかも知れないが、目的が目的なので質問されたらなんとも応えようがない。公園に遊びに来たただの一般人を装い、そおっとゲート脇の公園敷地を、あちらのお国と分かつフェンスにそって歩き始める。

すると・・・目の前に、出ちゃったよ、ほら。


これぞ廃墟中の廃墟、廃墟好きならずともその名を轟かせている旧根岸競馬場一等観覧席。やっとこれた。やっぱしホンモノを間近で観るとその迫力に圧倒される。特に3つある塔状の建造物の頭頂部の丸窓が目玉チックで怖い。ステンドグラスになっているようで、それが益々恐怖感を煽る。


ざっくりと説明しておくと、文字通り根岸の競馬場で、競馬場自体の歴史は元治元年といつかわからないくらい古い。横浜という場所柄、周囲には居留外国人が多く住み、彼らのために日本初の洋式競馬場として建てられたいようで、この一等馬見所は昭和5年にJ・H・モーガン設計により完成した。戦時中は旧日本海軍に接収され、来賓宿舎は米英系外国人の神奈川第一抑留所となったようだ。戦後は米軍に接収され、1970年に返還。森林公園の一部に馬の博物館があり、いまでもこの地に競馬場があったことをうかがい知ることができる。

戦中に旧日本海軍に接収されたのは、その見晴らしの良さから通信施設等に使いたかったからだというが、なるほど、展望室に上がらずとも、この一等観覧席の建つ高台は周囲を遮る物はなく、横浜の街を一望することができる。バスに乗ったそごうやみなとみらいの高層ビルまではっきりと窺える。この日は晴天でしかも平日で人影は殆どなし。実に清清しい昼下がりではないか!!

で、なんでこの廃墟が有名なのかというと、YMOが散開したライブをベースに『プロパガンダ』という映画がつくられたのだが、そのロケ場所としてここが用いられたのだった。YMOの散開が83年だから、その10年後の再生の時ですら廃墟趣味というものが広く知られていない時代によくもまぁこんなところでロケしたなぁと感心せずにはいられない。
高度経済成長期を何十年過ぎてやっとレトロ趣味的嗜好を後ろ向きな指向と捉えられなくなって未だ間もないというのに、競馬場跡の他に工業地帯を走る鶴見線の昭和駅も登場し、最近やっと日の目を見始めた工場・コンビナート萌えをも見据えていた。廃墟・廃線趣味の走りでもあろう宮脇俊三の『鉄道廃線跡を歩く』が95年だから、その先見性には驚きを隠せない。
一部ツワモノは内部探索を決行しているが、ビビリの自分には当然そんな勇気はなく、ただこうして蔦の絡まる塔を眺めているだけで十分戦慄モノである。もうこれでいっぱいいっぱい。夜は来れない。無理ムリ。

訪れている最中、頭の中では廃墟の中で教授がボーリングをし、始終「What do you see?」「What kind?」「Whatcha gonna do?」というフレーズが駆け巡っていた。わからない方にはまさに「ナニイッテンノ?」だが・・・

そんなテンションのまま、周囲の米軍関連施設でも周ってから帰ろうと思ったが、往時の居留外国人住宅を偲ばせるものは見当たらず、フェンス越しの整備された異国の風景ばかりで、なおかつゲートにはこれまたライフルを担いだ米兵が待機しているので、そそくさと帰りのバスに乗り込んだ。怖い怖い。無理ムリ。

ここから再び伊勢佐木町方面へ逆戻りして…その前に中休み的食べ物ネタでも挟もうかなぁ…ともあれつづく!

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